39日目 5月11日(水) リスボン 入港9時15分 出港19時10分 日出6:31 日没20:41
寄港地情報入国審査言語英語通貨港の位置ツアー発時シャトルバス
船側で一括ポルトガル語あまり通じないユーロほぼ中心部12:40〜ホテル・ムンディアル
航海情報天候気温正午位置風向風速船の揺れジョギングデッキマシン陸上合計デッキ累計距離累計
晴れ22℃38-43N 009-07W東2m/sわりと ---0km374周196km
船内情報講演等イベントメインショードレスコード食事
情報
ランチ(6F)ランチ(11F)ディナー
-ボン・ヴォヤージエドモンド・ラメー コンサートカジュアルシーフードフライ洋食和食
入港予定は11時だったので、ゆっくり目覚ましをかけていたところ夫が6時過ぎに起床して身支度を整えるや早々にワッチに行ってしまいました。
私はすぐにまた寝てしまいましたが、船長のアナウンスが7時前に入り、予定より早くリスボン港外に到着し、8時にパイロットを乗せて9時過ぎには着岸出来そうであるとの案内がありました。
それでもまだ起きられずウトウトしていた7時半頃、夫がテージョ川(Rio Tejo)の河口にある「サン・ジュリアン・ダ・バーラ要塞」(Forte de São Julião da Barra)の撮影に成功していました。ポルトガルに現存する最大の要塞で、16世紀(1553年完成)のものですが現役の国防省の庁舎でもあります。
そのちょっと後、リスボンの対岸にあたる右舷にはトラファリア(Trafaria)のグレイン(穀物)ターミナルが見えたようです。職業柄気になったのか、しっかりと撮影してありました。
私の方は身支度を整えようやく8時に部屋を出て、11F「ビスタラウンジ」の外で夫と合流しました。8時過ぎにパイロットが無事乗船しました。
ほどなく、左舷に世界遺産のベレンの塔(Torre de Belém)が見えて来ました。マヌエルI世の命により1519年に完成したリスボンとテージョ川を守る砦です。高さは30mぐらいだそうですが本船からはこうして見下ろすことになり、思ったより小さい建物だという印象でした。
その数分後、今度は「発見のモニュメント」(Padrão dos Descobrimentos)が見えて来ました。ブラジルのサンパウロで家の近くの公園にあったバンデイラスの記念碑(Monumento às Bandeiras)に親しんでいた所、旧宗主国ポルトガルにとても似た感じの石碑があると知り、子供心に実物を見てみたいと思っていたものです。ほぼ40年ぶりの夢が実現しました。
ブラジルのバンデイラスの記念碑(右)は彫刻が大雑把ですが雰囲気はやはり似ている(ポルトガルのために人が前に進んでいるモチーフ)と思います。

リスボンのモニュメントの先頭はエンリケ航海王子(Infante Dom Henrique, o Navegador)で、東側(川上)には今回の世界一周クルーズの航路と縁の深い2人もいます。3番目の髭がインド洋航路を発見したバスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)、11番目(斜め後方を向いている)が喜望峰に最初に到達したヨーロッパ人のバルトロメウ・ディアス(Bartolomeu Dias)です。

この他歴史で習う人物としては、5番目が最初に世界一周を成し遂げたマゼラン(Fernão de Magalhães)、最後から2番目が日本にキリスト教を伝えた聖フランシスコ・ザビエル(São Francisco Xavier)です。

クルーズならではの贅沢な景色が続き、この後本船は4月25日橋(Ponte 25 de Abril)に向かいます。サンフランシスコのゴールデンゲート・ブリッジを彷彿とさせる赤い綺麗な吊橋が見えて来ました。
中央支間は1,013mの橋の名前は、40年間続いた独裁政権を倒した1974年4月25日のカーネーション革命の日付だそうです。サンパウロにもこの様に革命系の日付「5月23日大通り」(Av. 23 de Maio)「7月9日大通り」(Av. 9 de Julho)の付いた通りがありました。
この橋のすぐそばには「クリスト レイ(Cristo-Rei、日本語だと王なるキリスト)」と呼ばれる像がリスボンを見下ろすように立っています。リオ・デ・ジャネイロのキリスト像にそっくりな雰囲気でびっくりしましたが、そもそもリオのキリストに触発されて建てられたものだそうです。
テージョ川を遡るわずか20分ぐらいの間にこれだけの名だたる建造物を見ることが出来てテンションは上がりっぱなしでした。ところでこのテージョ川はスペインのマドリッド近郊トレドを流れるタホ川(Rio Tajo)と同じ物だったとは、今回ここに来るまで知りませんでした。
橋をくぐり、テージョ川が急に広くなって視界が開ける右側にはリスナベ造船所(LISNAVE)がありました。その手前にはポルトガルの国旗をつけた黒っぽい帆船も見えています。
リスボンと対岸を結ぶ連絡船もあるようです。今までアフリカのどちらかと言うと荒涼とした風景を見て来たので、古い町並みと美しいモニュメントがならぶリスボンがより一層美しく見える気がします。
8時25分頃、タグボートが近寄って来ました。本船が着岸すると思われる場所には他の客船が2ハイ、既に入港しているのが見えました。
左舷には何だか名のありそうな広場と、それを囲む黄色い美しい建物が見えています。横浜を出港してから39日目、はるばる喜望峰を回ってようやくヨーロッパの西の玄関口にまで到達しました。

手前にいたフネがフレッドオルセンクルーズの「ブレーマー(BRAEMAR)」、奥がシーボーンクルーズの「シーボーン・ソジャーン(SEABOURN SOJOURN)」でした。ソジャーンは2010年に就航した最新鋭のラグジュアリー船ですが、船としてのデザインはいまひとつです。

本船は客船二ハイを交わし、左回頭して右舷出船着岸するようです。他の客船を見るのはシンガポール(4/11)以来ちょうど1ヶ月ぶりで、これからの寄港地はしばらく他の客船を見られるかと思うと楽しみです。夫はこのためにベルリッツの「CRUISING AND CRUISE SHIPS 2011」というガイドブックを持参しているのです。
リスボンのパイロットもなかなかカッコ良く、思わず見とれてしまいました。
9時15分頃ほとんど着岸しましたが、これ以上見ていると朝食を食べ損ねるのでワッチを開き、慌てて「リド・カフェ」に行きました。岸壁のすぐ前はリスボンのターミナル駅の1つ、サンタ・アポローニア駅(Santa Apolonia、水色の建物)がありました。奥の白いドームはサンタ・エングラシア教会(Igreja de Santa Engrácia)です。
天気が良いので、カフェ後方のデッキに出て食べることにします。何となく野菜やらハムやらに飽きたので、パンとヨーグルトだけにしました。手前のパンはツイストバターロールで、もっちりとした食感、レーズン、トッピングのシュガー・アーモンドの絶妙なハーモニーにすっかり病みつきになっているものです。
今日の午後は「貸切路面電車で巡るリスボン」を予約してあります。「発見のモニュメント」の所でバスを降りられるツアーがいくつかあり、またヨーロッパ最西端のロカ岬に行くツアーも捨て難かったのですが、帰船時間の早さが決め手となりました。その集合時刻は13時なのでしばらく時間があります。
下船準備が整い次第、ちょっとそこらに出てみることにしました。部屋で支度をしていると、見慣れた二引きのファンネルの貨物船がテージョ川を上って行きました。船名は「ESPRIT LOTUS」というウッドチップ船でした。
10時15分頃下船し、クルーズターミナルで地図を仕入れました。地元の大聖堂ぐらいは見ようかと思ったのですが、夫は興味がないのでとりあえず目の前のサンタ・アポローニア駅に行ってみることにしました。街中心部のいい場所にこうしてフネがいるのはとても便利です。
出発列車のみならず、到着列車の電光掲示板があるのがターミナル駅です。近郊列車やインターシティ(INTERCIDADES)、スペインの北部のイルンから12時間かけて走ってくる夜行列車も到着予定です。これを見るとテツの導火線に火がついて「ヨーロッパ列車の旅」などもしてみたくなります。
ポルトガルの軌間は1,668mmの広軌で、日本の在来線1,068mmや新幹線の1,435mm(標準軌)よりも更に広いので、これも見ているだけで「カッコいい〜」と興奮です。
ポルト行きのインターシティの機関車を見に行こうと、別のホームに行くと「飛鳥U」のファンネルと船名が良く見えました。本船と機関車のツーショットはなかなか見られません。
結局夜行列車は定時に到着する気配すらなく、いつまでも駅にいられないので外に出ることにします。リスボンの多くの建物はアズレージョ(Azulejo)と呼ばれる伝統的な装飾タイルで飾られています。語源は青(azul)かと思ったらそうではなくてアラビア語由来だそうです。
駅の正面は川に沿って軍事博物館がありました。時間に余裕があれば寄ってみたい場所です。
これを見ながら右折して町の奥に入って行きます。一本中に入ると急坂になっていて、これは地図を見ただけではわかりません。どうでもいいつっかけサンダル履いて来てしまって大失敗でした。
それにしてもポルトガル語の単語がすっと頭に入って来るのは嬉しいものです。父の仕事でサンパウロに住んでいた小学生の頃、日本人学校で週3回三年間授業を受けていたので、このような貼り紙も何となくわかります。折角わかるのだからもうちょっと勉強してみようかと言う気持ちになりました。
夫が気の向くまま適当に進むのに付いて行くと、路面電車の線路がありました。ギリギリに車が停めてあるのはテレビの旅番組で見た通りです。
坂をのぼった先にはたまたまサン・ビセンテ・デ・フォーラ教会(Igreja de São Vicente de Fora)があったので参拝しました。17世紀の教会だそうですが立派な祭壇があって荘厳な感じでした。日本と違いキリスト教にはそういう概念はありませんが、つい「地元の神様に挨拶を」と思ってしまします。
教会を後にして更に進んでいます。振り返ると教会の左側の鐘楼が覗いていました。やはりヨーロッパはどこを切り取っても絵になります。
この辺りにもアズレージョで装飾されたアパートがありました。窓から隣の窓に紐をかけて洗濯物が干してあるのが南欧風です。

私達が歩いているアルファマ(Alfama)地区は1755年のリスボン地震の時も残った建物が多く、まるで迷路のようになっていました。行き止まりかと思った閉ざされた赤い門は、他の人が戸を開けて通過したので通れることがわかりました。

それから更に奥に行くと、サンジョルジェ城(Castelo de São Jorge)の端に到達しました。そこから入れるのかと思ったら、作業をしているおじさんに「あっちから」(こういうのは身振りでわかります)と言われたので正面入口に回り込みました。
入場が1人7ユーロだったので、「城なんかどこでも同じだから入らないでもいいか」と一瞬思いましたが、夫が行こうよと言うのでクレジットカードで決済しました。坂を上って行くとまず広場がありました。
そして更に先に行くとテージョ川とリスボンの赤い屋根、4月25日橋とクリスト・レイまで見える大パノラマが広がっていました。天気も良く最高の眺めで、ここまでやって来て大正解でした。
城は11世紀に建てられ、ポルトガル王達の居城だったこともあるそうです。城の入口のあたりで本船の気功の先生とバッタリ会いました。気功のクラスには興味があって、毎日15時から開催されているのですが、コントラクトブリッジ教室と時間が重なっているため一度も参加出来ていません。

先程行ってきたサン・ビンセンテ教会と船から見えたサンタ・エングラシア教会のドームが重なって見えています。また海の反対側にはグラッサ(修道院)教会(Igreja do Convento da Graça )がいかにもといった雰囲気で佇んでいました。

12時を過ぎたのでそろそろ戻らなくてはいけません。それからちょっと足場の悪い階段のようなところで、ショルダーバッグを後ろから引っ張られ、振り返ったら後ろにいた若い女性の二人組が慌てて手をバッグから放しました。悪びれる様子もなくニヤニヤして行ってしまいましたが、気が付かなかったら財布を盗られていただろうと思います。

夫が「欲張って色々な写真を撮ったりして注意散漫だからだ」としたり顔ですが、気が付いたからいいのです。キョヨロキョロしていないと、こういう写真は撮影出来ません。
城から船に戻る途中でリスボン大聖堂(Sé de Lisboa)に寄りたかったのですが、思ったよりも川下にあったらしくかすりもせず川沿いの道に出てしまいました。
城から歩くこと30分、12時半頃漸く「飛鳥U」に戻りました。そんなにもの凄く歩いた感じはしませんでしたが、夫が付けていた万歩計はすでに11,000歩にもなっていました。
午後の部のツアーは13時集合だったので、あまり時間がないため夫だけ11F「リドカフェ」に昼食をとりに行きました。私はツアーの後リスボンの名物鰯の塩焼きを食べる気満々だったので、昼食のかわりにシンガポールで購入したカッパえびせんを摘みました。ヨーロッパのツアーから新兵器「イヤホンガイド」が使えるようになるため、本船から配られたものを今回初めて持ち出しました。
観光バスは13時10分頃岸壁を出発し、20分位かけて路面電車の乗り場まで向かいます。リスボンはジャカランダ(Jacarandá)の街としても有名で、今年は例年より早く咲いたとかで満開の紫の花をあちこちで見ることが出来ました。

元々は南米原産なので、ブラジルでもジャカランダという木は聞いたことがあったのですが、何故か花が咲いている記憶がないと思ったら同名の別物(ブラジルのジャカランダは高級木材)なのだそうです。
13時半頃、エストレラ寺院(Basilica da Estrela)前でバスを降りて、貸切になっている路面電車に乗り込みです。スピーカーのある観光バスでは関係ありませんが、路面電車ではカイドさんの声が全員には聞こえないため無線でイヤホンガイドに声が入って来る仕組みです。今回は日本人の女性ガイドなので言っていることが100%わかります。
私達の乗った車両は女性の運転士さんでした。観光用の赤いトラムではなく、定期運行されているカリス(Carris)社の黄色い路面電車の貸切とはゴージャスです。土地勘がないのでピンと来ませんが、バイロ・アルト(Bairro Alto) 地区、シアード(Chiado)地区、アルファマ地区、バイシャ(Baixa)地区を順番に通りコメルシオ広場で下車と案内に書いてありました。バスの入れない狭い道を通れるのがポイントです。
しばらく待って13時40分頃発車しました。座席が20ほどの車内はとてもコンパクトです。少し走ると左側に国会議事堂(Assembleia da República - Palácio de São Bento)が見えました。
リスボンには今乗っている路面電車(いわゆる粘着式)の他、ケーブルカーも複数走っています。右側の窓にビカ線(Ascensor da Bica)のかわいらしい車体が見えました。
ルイス・カモンエス広場(Praça Luis Camões)を越して右折すると、急に道幅が狭くなりました。
電車は中心部に入りショッピング街のアウグスタ通り(Rua Augusta)が左に見えました。これは歩行者専用道なので右に左に気ままに買物出来そうです。地面に石で描かれた模様がブラジルと同じような感じで、これがルーツだったのかとわかりました。
電車はラッキーなことに午前中行くことが出来なかったリスボン大聖堂の前の坂を上がりました。歴史が古いため様々な建築様式を合わせ持っているそうです。車がにカーブを切る直前まで粘って左側の席から全景を収めることが出来た会心の一枚です。

それにしてももの凄く狭い場所で対向車とすれ違っていますが、相手も慣れたもので動じる様子が全くありません。

電車同士のすれ違いであれば線路からはみ出ることはないので安心ですが、慣れればどうということはないのかもしれません。
電車はサン・ジョルジェ城のまわりを大きく一周し、ここまで走って来た28番の路線の終点であるマルティン・モニス広場(Praça Martim Moniz)に着きました。
この広場にはホテル・ムンディアル(Hotel Mundial)があり、本船からのシャトルバスはここを発着します。飛鳥デスクののぼりも立っていました。電車はここから12番の路線に入ります。
電車は14時半頃コメルシオ広場(Praça do Comécio)に到着し、約50分の路面電車の旅が終わりました。窓の開いた幅の狭い路面電車は写真撮影にも最適で、短時間にリスボンのハイライトを見ることが出来る上、日本語の説明も入るので予想以上に面白かったです。

コメルシオ広場はリスボン地震以降の一体の再開発によって作られたもので、中央にある騎馬像は時の国王、ジョゼT世のものだそうです。このあたりだけ道が碁盤の目のようになっている理由がわかりました。

ここでトイレ休憩があり、「この建物は公のものなので普段は入れないんですよー。でも事前に交渉して使えることになりました」とガイドさんが教えてくれた建物に入って用を足しました。その後この辺りは駐車出来ないため時間潰しをしていたバスがなかなか来なかったため、結局15時に再びバスに乗って出発しました。でもここからは下車の出来ない車窓観光なのでいまひとつテンションは上がりませんでした。

4月25日橋と発見のモニュメントベレンの塔ジェロニモス修道院
(Mosteiro dos Jerónimos )
船に戻る途中コメルシオ広場前の海側を通り、そのすぐそばに「パウロのカステラ(Castella do Paulo)」の店がありました。長崎で修行をしたポルトガル人のご主人と日本人の奥さんがやっているティーサロンで、ポルトガルの伝統菓子のほか日本風のカステラも売っているそうです。
その先の左側に「くちばしの家(Casa dos Bicos)」がありました。その名の通り家の前面にくちばしの様な四角錘で装飾がしてあります。16世紀前半に建てられ、地震の際にも残ったものです。
これで船に戻ってツアーは終了です。ガイドの日本人女性の話は面白く、ポルトガル人には欝という概念がないことや、1日の摂取カロリーが4,000kcal (゚ロ゚;)であること、お金があるだけ使ってしまうので貯蓄率が低いことなどが印象に残りました。

最終帰船時間の18時までまで2時間近くあるので、念願の鰯を食べに行くことにしました。
鰯の焼いたのは「Sardinhas Assadas」で、午前中にもチェックしてあったのですが、その店は閉まっていたので近くに英語で「OPEN」と書いてある店「ア・カーザ(A CASA)」をみつけました。ガイドさんによると庶民料理なのでどの店に入っても間違いはないらしいです。
入るなり夫がビールを飲みたい一心で「セルベッサ(Cerveza)!」。残念ながらこれはスペイン語でウェイトレスのお姉さんは怪訝な顔になったため、すかさず「セルベージャ(Cerveja)」とポルトガル語に言い換えました。そしてやってきたのがキンキンに冷えた地元のビール、スーペルボック(Super Bock)です。やはりビールは地元のものがその気候・風土に良く合います。鰯は4匹だと言うので、一皿を二人で分けることにしました。
奥で鰯を焼く音がするのを待つこと15分、やってきたのがこの丸々太った鰯たちです。本当にシンプルに塩味だけで、新鮮なためワタが入ったままです。ビールに合うことこの上なく、病み付きになりそうな味でした。
夫がビールの小をおかわりし、入口の外の洗濯物を眺めながら南欧気分満点の食事でした。鰯が€4.50、ビール大が€3.50、小が€1.20の合計€12.70はチップを含めてもとてもリーズナブルでした。お姉さんがブラジル人でしかもサンパウロ出身であることがわかり、最後に盛り上がりました。
食べた後まだあと1時間余裕があったので、再び鉄道の駅に戻り、しばらく眺めた後今度は地下鉄を見学に行きました。自動改札機の調子が悪く、どの改札からも出札出来なくなるウソのような状況が発生し、流石に皆怒っていました。
岸壁では一番端にいる「ブレーメン」やラグジュアリー船「シーボーン・ソジャーン」をチェックし、「ソジャーン」の方はギャングウェイに係員がいたので次はどこに寄港するのか(Where is your next port ?)尋ねたところ「Port.」一瞬通じなかったのかと思ったらポルトガル第二の都市ポルトのことでした。彼は飛鳥Uになる前の「クリスタル・ハーモニー」に乗っていたそうです。
リスボンは思いのほか居心地が良く、去りがたかったのですがずっといる訳にもいきません。せめてもうあと1日滞在したかった気持ちと共に、最終帰船時刻の10分前に本船に戻りました。

「リスボン名物イワシの塩焼き(2011年5月14日)」
18時に「ソジャーン」が、乗船客がなかなか戻って来なかった「ブレーマー」が15分程遅れで相次いで出港していきました。
恒例のボン・ヴォヤージュは控え目に参加し、今回は出港シーンに集中することにしました。本船は予定より少し遅れの19時10分にリスボン港を後にしました。
見慣れた建物がどんどん遠ざかっていきます。それにしても客船というのは何と贅沢な移動方法なのかと思います。こうしてリスボンに名残を惜しみながらゆっくりと去っていくのです。
4月25日橋は復路では順光になり綺麗な赤色で佇んでいます。多くの乗船客がこの出港風景を堪能しているようでした。
陸では車窓見物だけだったので、発見のモニュメントの前では夫と一緒に本船のカメラマンに写真を撮ってもらいました。ベレンの塔を過ぎると20時に近くになり、そろそろ食事に行かなくては食いっぱぐれてしまいます。
先程飲んだスーペル・ボックとは別のビール、サグレシュ(SAGRES)が入荷したみたいなので、折角だからと飲むことにしました。ポルトガル海軍の練習帆船の名前からきているらしく、その帆に大きく描かれているキリスト騎士団の赤い十字架に似たマークが付いています。

本日は和食ですが、出港が1回目の食事の時間と重なったため、通常は1回目(17時半)の人達が2回目に流れてきたようでいつもより混んでいました。
食前酒
あらごし梅酒

先附
のれそれ 三杯酢

造り
鮪 帆立 盛り合わせ あしらえ
凌ぎ
飯蒸し からすみ いくら 柚子

焼物
イサキの若狭焼き はじかみ
揚物
ソフトシェルクラブ唐揚げ 生野菜添え ポン酢ドレッシング
汁物
卵豆腐とあおさの清汁

ご飯物
蛸の炊き込みご飯 人参 薄揚げ

香の物
甘味物
ポルトガル産カステラ

なんと昼間に店の前を通った「パウロのカステラ」のデザートが出てきました。説明にこのパォン・デ・ロ(Pão-de-ló Português)はカステラの原型と考えられている伝統的なポルトガルの古典菓子で、現在も特に北部でよく作られ食べられていると書いてありました。

食事を食べ始めてすぐの20時15分頃、飯蒸しが出て来る前のタイミングで左舷に雰囲気のある灯台(ブジオ(Bugio)灯台)が見えました。帰国して調べたらもともとは17世紀後半からある海賊対策の要塞で、灯台は1775年に作られた由緒あるものでした。
22時半頃、「ダカール(2011年5月11日)」を書き込みました。USBに原稿と画像を仕込み、URLやらパスワードを記載したメモ帳やらを何画面も立ち上げて最短書き込み時間を目指しますが、接続速度が遅くどんなに頑張っても7〜8分かかるため、1回あたり約700円のコストがかかっていることになります。この頃には夫も「僕がいても何の役に立たないから」と一緒について来なくなったため、コンピュータールームで一人PCに向かい時間と戦う孤独な作業です。