4日目 5月2日(木) 長崎 入港10時 出港18時
明るい気配に自然に7時半に目覚めると、綺麗に晴れていて絶好の長崎入港日和です。GPS地図によると本船は既に五島列島を後ろに見ているようです。

食事は昨晩の料理がもたれていたため、軽めにと8時過ぎにいつも通り11Fのボレロ・ビュッフェに行き、二人で元気ない感じの食事を摂りました。
11Fの席は混雑しているため、1つ上がって昨晩のクラブ・レストラン、イル・マニフィコに行けばゆったりと座ることが出来ます。但しウェイターは常駐していないので、ドリンクの注文は取りに来てくれません。
そこで部屋への帰り道にいつものバーでカプチーノを淹れてもらい、まだちょっと肌寒かったため吹き抜けの最上階部分の椅子で飲むことにしました。ガラス張りで暖かく気持ちのいい場所でした。
この頃、ちょうど右舷前方遠くに端島(はしま、通称軍艦島)が見えました。太陽光がきつく、液晶がほとんど見えませんでした。この海域を通るのは初めてなのですが、どの辺にあるのか全然知らなくてもその特徴的な島影から一発でわかりました。
14Fのオモテの方に移動して景色を眺めていると、9時前に右舷からパイロットが乗船しました。
それにしてもいい天気で、湿度も低く空気が澄み渡っています。
船が進むにつれ段々陸が近付いてきました。9時10分頃、右に古そうな教会が見えたのですが後で調べたら伊王島の「馬込教会聖ミカエル天主堂」でした。昭和6(1931)年に建てられた鉄筋コンクリート造りだそうです。
右に三菱重工の香焼(こうやぎ)工場が見えました。フェリーっぽいフネが入っていますが、遠くてよく見えません。
フネは左に舵を切り、前方には女神大橋が見えてきました。ただ、本船「コスタ・ビクトリア」は前面をガラスなしで展望出来る場所(乗り物好きのかぶりつき席)がないので、個人的にはいまひとつ盛り上がりません。
新造で艤装工事中のLNG船の向こうに、先ほど見えたフェリーが再び現れました。ファンネルは新日本海フェリーだったので、当たりを付けて双眼鏡でかろうじて名前を読み取ると「すいせん」でした。昨年デビューの新造船ですが、もうドック入りするのはどういうことだろう、と夫が首を捻りました。翌月この姉妹船の「すずらん」で苫小牧東から敦賀までのフェリークルーズを予約しています。
メインマストには日章旗の他、信号旗が「第2代表、1、E」と掲揚されていて、港則法施行規則によると「第1区東側の係留施設に向かって航行する。」を意味するそうです。

   
スリー・ダイヤモンド(三菱)のマークの入った巨大クレーン(1,200トンで国内最大級)も目立っています。ベルファストのH&W造船所では怪力「サムソン」と巨人「ゴリアテ」の愛称がついていましたが、こちらはどうでしょうか。「天手力男神(アメノタヂカラオ)」とかだったら凄いと思います。
9時半頃女神大橋をくぐりました。50m以上ある本船よりも10mぐらい余裕がありそうだったので驚いてネットでチェックしたら、クリアランスは何と65mもありました。QM2がギリギリですが通れる高さです。流石造船の街長崎でした。
橋の上から見下ろしている人達がいるのが見えました。10万トン以上の大物がくぐる所を見てみたいものだと思います。
橋をくぐると左舷には三菱重工の長崎本工場があります。ゴライアス(トロリー式橋形)クレーンの後ろに見える錆びた色のクレーンは、戦艦武蔵を建造したものだそうです。

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左に三菱重工の本工場が見え、商船三井のコンテナ船2ハイを建造中でした。そのうち1ハイの名前が「MOL COMMITMENT」(誓約とか言質の意)と入っていて「もっとマシな名前ないのかよ」と夫が愉快そうでした。
その横にはイージス艦「176ちょうかい」とヘリコプター搭載護衛艦「144くらま」が並んでいました。「くらま」は2009年の観艦式の後、佐世保に戻る際関門海峡で航路をはみ出た外国の貨物船にぶつかられて艦首部分が大破してしまいました。
その奥には艦番号「117」が見えています。前年2012年10月に進水し艤装工事中、翌年3月に就役予定の「すずつき(涼月)」でした。

と、コンテナ船と護衛艦に興奮しているうちに本船はそのまま入船右舷着岸してしまいそうです。予定通り10時に着岸することが出来ました。凄く立派な岸壁です。

左舷のキャビンから見える対岸には、スコットランド製の150トンジャイアント・カンチレバークレーンが見えました。1909年に輸入したもので、未だ現役で頑張っているそうです。

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済州島から帰って来たのでここ長崎では日本への入国審査があります。まずツアー参加者が下船し、自由行動をする場合11時半に6F「フェスティバル・シアター」に集合して下船する必要があるようです。すべての乗船客のクリアランスが終わるまで本船に戻れないのはニューヨーク港と同じです。11時半までただ待つのはちょっと勿体無いと思っていたところ、11時過ぎに放送があって下船できることになりました。
長崎港のターミナルにはとても立派な出入国管理所があって驚きました。そこらの地方空港より立派な感じで洗練されています。思わず管理官の人に馴れ馴れしく「立派なターミナルですねぇ!こんな立派な港は初めて見ました」「そう言っていただけると…」「いつ出来たんですか?」「去年(2012年)出来たばかりです」とのことでした。流石GW中もサン・プリンセス、ボイジャー、そして本船が複数回寄港するだけのことはあります。
長崎では歴史的に有名な大浦天主堂と出島、夫は太麺の皿うどんという希望を持っていたので、まずは港のすぐ近くにある大浦天主堂に向かいました。ガイドブックは持っていたのですが、船内では遊び過ぎて全く予習をする時間がなく勿体無いことに予備知識ゼロの状態でした。
大浦天主堂はフランス人の礼拝堂として1865年に完成した、現存する日本最古のキリスト教建築物なのだそうです。
またキリスト教の信仰が厳しく禁止されていた時代に、250年もの間隠れて信仰を守った信徒達が名乗り出た場所(信徒発見)でもあります。司祭のいないまま代々信仰を守り通したことは宗教史上の奇跡とも言われています。
その後12時過ぎに隣接したグラバー園に行きました。ここの展望台からは長崎湾と停泊中のコスタ・ビクトリアが綺麗に見えていました。
スコットランドの商人で日本の近代化に多大な貢献をしたグラバー氏は日本で最初のビール会社を作っており、それが後のキリンビールになりました。ラベルのモデルになったといわれる狛犬が置いてありました。
またこの庭園にはいくつかの歴史的建造物が移築されていて、その中の1つに旧三菱第2ドックハウスがあります。先程入港時に左に見えた飽の浦地区にあったそうで、ドック入りした船の乗組員の宿舎として使われていました。
グラバー庭園にはハート型の石が園内のどこかに2つあり、2つとも見つけると恋がかなう、とか幸せになるとか良いことがあるそうで、グラバー邸の前にとりあえず1つだけ見つけることが出来ました。
見所が多く、たっぷりと1時間半近く見学した後はいよいよ皿うどんタイムなのですが、坂を下りた目の前にあった元祖と言われる「四海楼」はまだ13時半なのに客を捌き切れず「準備中」となっていました。
仕方なく次の目的地である出島を目指しつつ適当な店を探すことにしたところ、中華街に入る手前にちょっと寂れた(ようにみえた)感じの店、「美有天」がありました。中を覗くと誰もおらず不安でしたが夫の空腹はもう抑えられません。ということでここで念願の太麺の皿うどんを注文しました。
もちもちした麺と具材がからみ、ボリューム満点で美味しかったです。東京で皿うどんと言うと細い揚げ麺の上にあんかけのイメージが強いのですが、夫は太麺のタイプが好みです。以前佐世保の駅前では太麺ではあったもののあんかけ状態だったので、夫によると子供の頃食べた太麺が具と一緒に混ざっているタイプは久しぶりで来た甲斐があったとのことでした(写真は左の佐世保のあんかけタイプ)。

「長崎皿うどんとは?(2013年5月14日)」
お腹が落ち着いたので最後に出島に向かいました。が、折角なので眼鏡橋を見てみたいと思い、中津川に足を延ばしました。

江戸時代の初期に架けられた橋は今でも現役で頑張っています。

橋からは15分程で出島に到着しました。これは南岸の護岸石垣で、一度は埋まってしまっていたものが1996〜7年の発掘調査で発見されたそうです。
以前とは海岸線が変わり、昔の「出島図」でお馴染みの、人工島としてそこだけ海に突き出ていた面影は残っていませんが、過去の建物を徐々に復元している最中で、往時を彷彿させるテーマパークの様になりつつあります(写真は模型)。

長崎しにせ会HP「長崎今昔」第二十三回/出島復元の歴史へのリンク
一番船船頭部屋の建物には、一番船船長の寝室が再現されていて、畳間とベッドの組み合わせに懐かしさを覚えました。
同じ建物の1Fは倉庫だったそうで、今まで訪れたことのある小樽の旧ヨイチ運上家や、ベルゲンのハンザ博物館と同じ、商館独特の雰囲気を醸し出していました。

最後にカピタン(商館長)部屋を見学し、建物の外観からは想像もつかない洋風な内装に感心しました。

駆け足の見学でしたが、あまりの面白さにこれは1日あっても足りないと思いました。次回はじっくりと時間をかけて隅々まで見てみたいと思います。もともと日本と関係の深かったポルトガルを追い落とし、鎖国下の日本と唯一交易を認められたオランダの出先機関の権益は計り知れないものがあると思いました。東インド会社、恐るべしです。

De Vereenigde Nederlandsche Oostindische Compagnie
(東インド会社のロゴ)
この後フネに戻りがてら長崎水辺の森公園に行き、セルフタイマーで年賀状用の写真を数枚撮影しました。
フネのある松ヶ枝岸壁から女神大橋までは直線距離で2km強ですが、すぐそばにあるように見えました。
16時過ぎに船に戻ると夫が陸をジョギングするぞと張り切っています。最終帰船は17時半なのであまり時間がないのですが、意思が固い上一緒に行こうとうるさいので仕方なく付き合うことにしました。再下船時に舷門のセキュリティーから「17時半ですよ」と確認されました。
あまり遠くには行かず先ほどの海浜公園のあたりをジョギングしましたが、陽気と空気とハーバーの感じがまるでどこか外国にいるような感じです。夫(写真上の白い点)は大喜びで芝生を駆け回りました。
その先にはフェリーや遊覧船の乗り場の桟橋が2本あり、乗り場は何と10コもありました。高速船やフェリーが五島航路に就航していて、この高速船「びっぐあーす」は僅か1時間40分で上五島の鯛ノ浦に到着するそうです。父方の元々の出は五島らしいので、いつかここからフネで渡って訪れてみたいと思いました。

幕府の練習船観光丸の復元船もいて、1時間の長崎港クルーズをやっているみたいでした。以前(中央の写真は2008年)はハウステンボスにいたのですが、活躍場所が移ったのかもしれません。

出島から帰った16時頃五島から戻ったフェリー「椿」が、16時50分頃慌しく福江を目指して出て行きました。2012年の12月に就航した新造船でした。
結局40分程の外出で走ったのは30分ぐらいと適度な運動をし、余裕を持って17時過ぎに本船に戻りました。
シャワー後は恒例のビアタイムです。我家の酒蔵シレーナ・バーに行き生ビールを3杯買ってテイクアウトです。三菱重工の造船所を見ながら最高のひとときでした。
出港は予定通り18時で、部屋の反対の右舷まで見にいくのが面倒なので夫だけが偵察に行くと高校生のブラスバンドの演奏があったそうです。
本船は離岸後左回頭し、少しずつ長崎の街を離れて行きました。大浦天主堂の横にあるのが大浦大聖堂で、現在教会の機能はこちらに移されているそうです。
岸壁は十分離れて改めてみるとかなり凝った立派な造りで、一度に1杯しか入れなさそうですが横浜の大桟橋に負けないと思いました。
18時半頃女神大橋を通過しました。長崎港は傾斜と対岸までの距離が丁度良く、とても気持ちの良い港でした。
香焼工場のゴライアスクレーンに見送られます。
日没は東京よりちょうど30分遅い19時頃でした。水平線のかなり直前まで丸く綺麗に見えていたので「グリーフラッシュ出現か!」と思ったのも束の間、直後に雲に沈んでしまいました。
出港から1時間近くバルコニーに出張っていたので、大分身体が冷えたので、部屋のお風呂を溜めて入ることにしました。それから隣のバルコニーとの境目の板がまたガタついていたので、修正することにします。
2日目に修理してくれたパテが固まった結果、また止め具と板の隙間が出来てしまったようなので、濡れティッシュで隙間を埋めました。我ながらグッドアイデアでした。
20時からの食事はすぐに行っても混んでいるだろうと、食前の2杯目を6Fのオルフェウス・バーで飲むことにしました。
明らかに飲み放題システムの弊害で、通常は飲まないタイミングでのカクテルです。夫はジントニックを、私はフローズンマルガリータを注文しました。ここで2日目に夕食が一緒だった女性3人組と再会し、また一緒のテーブルになりました。

Appetizers

  • Angel hair salad with shrimp served with lime dressing


  • Slice roast beef with zucchini salad mint dressing
Soup

Chicken and corn soup
Pasta

  • Egg tagliatelle oasta with pumpkin cream sauce


  • Rigatoni pasta with mobildona sauce
Main Courses

  • Beef goulash served with mashed potato


  • Roast Chicken provencale served with potato and vegetables★
Desserts

またも名前がわからなくなりました。デザートのメニューが別になっているので、つい写真を撮りそびれてしまっています。

いつもは二人の夕食が、若い女性3人と一緒で盛り上がり、その後はまたオルフェウス・バーになだれ込んで飲み続けました。
1時過ぎにお開きになり、部屋に戻るとストロベリーチョコレート(タキシート・ストロベリー)が届けられていました。
長崎を歩き回ってちょっと疲れているのに、遅くまで遊び過ぎでした。1時半頃の本船は薩摩半島の枕崎沖を航行中でした。